財布、携帯、2日分の衣服、そしてフィルムカメラをリュックに突っ込み、ヨイショと背負う。
秋田から地元まではおよそ7時間。それぞれの空港間を繋ぐ便が出来れば、もっとすぐに着くのに。だけどこの移動時間も悪くない。時速100kmで走る新幹線の椅子に身を任せ、車窓を流れる景色の移り変わりを見ていると、改めて「遠くに来たな。」と思う
電車を降り、改札を出る。見慣れた駅の通路を、たくさんの知らない人が歩いている。ロータリーへ降りると、母が手を振って待っている。
ここから実家まではさらに車で30分。運転する母、助手席に座る私。
「車、変えたんだ?」
「そうなの。この間、薮から飛び出してきた猪に衝突して、もう動かなくなっちゃって。本当に黒い煙って出るんだね。」
母と話すことで、私が地元にいない間に起きていたことを知れる喜びも確かにある。だが、それ以上に空虚さを感じてしまう。祖父母が営んでいた店はもう取り壊してしまったし、通っていた小学校は廃校になったし、よく顔を合わせていた近所のおじさんはもう亡くなっていた。一年も前のことらしい。そんなことを知る。
浦島太郎が竜宮城で過ごす間に地上では何十年もの時間が流れる。彼は玉手箱を開けたことにより、歳をとる。しかし、それは肉体の辻褄を合わせただけで、彼には地上で過ごした記憶も思い出もない。私は車内でいつもこの昔話を思い出す。
同じ時間に目覚め、出社し、8時間ほど働いて、家に帰ったら食事と風呂を済ませ、眠りにつく。こんな秋田での生活を「日常」と定義するならば、地元で起こる出来事は「現実」だ。そして現実を現実たらしめているのは「時間」だ。私にはコントロールできないほど絶対的なものなのに、日常を送っているとしばしばその存在を忘れてしまう。
実家に到着すると、先ほど母から聞いた出来事を経た、現在の地元がそこにある。祖父母が営んでいた店の跡地に敷かれた真新しい砂利。16時になっても聞こえてこない下校する小学生の声。
「何も変わらないでしょ」そう言う父に対して苛立ちすら覚えてしまう。
だけど、私はこの場所に向き合わなければいけない。と思う。そのためにリュックに入ったカメラを取り出し、首にかける。
当たり前だが写真には、過去が記録されている。シャッターを押したその瞬間から、ファインダーから見ていた現在は過去になり、フィルムに写し取られる。
そしてプリントという作業をする時には、その過去を撮った瞬間から、さらに時間が経っている。もはやシャッターを切った時点の私と、暗室でプリント作業をしている現時点の私は接続を感じず、ただ過去の一場面だけがそこにある。地元でどれだけの時間が流れようとも、私がどれだけそこで起きる出来事を体験できなくても、どれだけ悲しいことが起きても、シャッターを押せる限り、過去を作ることができる。
もっと言うと「写真は過去しか撮れない」という考え方はかなり人間目線だ。カメラはただそこにある光の現象を捉えているに過ぎない。それが撮った本人や写っている人たちにとって重要であるかなど全くもって関係ない。私はこの、冷徹とも言えるようなカメラの機能と写真の性質に頼って、またこの地元に向き合うことができる。そして過去の断片を作っていく。今の所、それしかできることが無い。だからやるしかない。