最近、自分の半径5メートル、いや10メートルくらいの範囲で人が亡くなっている。(呪いみたいな話ではない)親族とか親友みたいな関係性じゃないけど、みんな、お世話になっていた人たちだ。
少し前まで、死はドラマチックなものかと思っていた。日常が大きく変わるような、劇的な出来事。だけど、実家に帰ると死の気配はいつもそばにある。こう書くと、死神が大きな鎌を持ってズリズリと近づいてくるようなイメージを抱くけどそんな緊張感があるものではない。例えば、玄関を開けたら必ず目に入る置物のように、ただ「そこにある」ような、そんなもの。
だから、「またね」という言葉を思い浮かべてしまう。それは学校からの帰り道、友達に向けて言う、疑わない約束のような「またね」と同じ。この「またね」が天国のあなたに届いている、なんてことは思わない。私はそこまでロマンチストじゃない。
では、誰に向けての「またね」なのか。私もわからないけど、強いて言えば未来かもしれない。人が亡くなった後に残るのは文字とか写真とか、そうした物理的なものだけじゃない。交わした言葉が、今、生きている人たちにリトマス試験紙のように浸透している。それは、ママ友と保育園の話をしている時や、帰宅後、直行してシャワーを浴びている時に、フッと取り出される。少し言い回しが変わっているかもしれないが、そこはご愛嬌。
なんだか別れを肯定したい気分になってしまった。新幹線でSuiseiNoboAzの『3020』を聞いたからかもしれない。誰かの意識がなくなっても、その意思を他の誰かが無意識に引き受ける。誰かと出会っていたこと。誰かと出会ったあなたはこの先も生きていくこと。そしてその過程で、また会うこと。それは劇的なことじゃなくて、普通のこと。だから生きていくしかないのかもしれない。